自称:小説家 翔子の日常

こちらは、執筆家としての日々の悩みと、投稿完了の報告を綴っていくブログです

大河ドラマ「篤姫」と原作「天璋院篤姫」

 

皆様、ご機嫌如何でございましょうか?

 

私は相変わらず、家に閉じこもり、小説の題材やネタを、小説を読んで考えを巡らしています(パクリはもちろんしてませんし、厳禁です)。

 

今日、ふと、だいぶ前に録画していた大河ドラマ篤姫」を見て、だいぶ前から下巻を読み始めた「天璋院篤姫」との違いを比べてみた感想を今日は話して行きたいと思います。

 

まだ下巻を読完してはいませんが←

 

上巻、合わせて大幅に違う所がありましたね。もちろん、原作なので所々ドラマと同じシーンはありましたけれど(本当は逆です ドラマに原作のシーンがある)、台詞や登場人物が違ったり、描写や、天璋院の心の声、知られざる真実などがあり:

 

ドラマを観て→原作を読む、

もしくは

原作を読んで→ドラマを観る

どちらをされても楽しめますね。

 

~~ここで、とあるシーンの抜粋~~

ドラマをご覧になった方なら分かるかと思いますが、天璋院和宮との嫁姑の諍いなどが、原作では濃く、深く描かれています。

天璋院が駄々をこねて(言い方はあれだけど)、表向きが、和宮天璋院と本丸に住むのが嫌だから、火事で修復中関係なく、このまま西ノ丸へ居てくれと天皇が願っていると嘘を伝えたら(その真意が良く分からなくて、男達は馬鹿か?と思いました)

「じゃあ、遠い二の丸に移るわ」とふてくされるシーンは、カワイイとさえ思ってしまいました。ちなみに二の丸は、本丸・西ノ丸よりも小さくて、自然あふれる隠居屋敷のような場所でした。

周りの女中、特に滝山が必死に止めても「嫌だ」と言って、頑としても引っ越しすると言って聞かない。滝山が京方に真意を尋ねたら「根も葉もないことどす」と言うのを、滝山は天璋院に伝えても、「それは、言う様に応えただけでしょ」と頑固さ。

挙句には心の声で、「和宮が直々に、誰に止められたとしても、私の前に来て、「移らないで」と言ってほしかったのに」とまで言うシーンがあって、ドラマを観ていた自分からしたら、衝撃的でした。

 

ドラマでは、篤姫は「強い人」というイメージだったんですが、「威厳があって強い人の裏には予想だにしない涙と苦しみがある」という描写だと悟りました。

 

宮尾登美子さんは、この小説で、天璋院篤姫の人となりと考えを見事に描いていると思います。相当な資料を目の前に、必死に、そして丁寧に書かれているのが分かりました。

 

 

 

 

色々と書いていて、気付きました、原作と映像作品、違って当たり前ですよね(笑)

 

ハリーポッターシリーズで経験済みでして、中々こう、ブログで書いたことが無いので、当ブログを読んで頂いている方とシェアしたいと思い、書き連ねさせて頂きました。

 

現在、「魔法ワールド」メディア・フランチャイズの一環として、「ファンタスティックビースト」シリーズが現在進行形で、ハリーポッターと同世界別時代の作品が描かれています。

この作品で、原作者の J.K.ローリング女史が脚本を書いていますが、とある評論家が申すには、「原作者は脚本向きではない」という事。

「ファンタスティックビースト」は先駆けで、ハリーポッターと同様に、原作という存在はありません。先に展開を知る事は出来ず、映画上映後のノベライズしかありません。

なので、我々ファンは映画でしか知る由はありません。

ただし、原作者として長編小説を執筆している人が脚本を書くと、無駄に長くなってしまったり、人物描写を汲み取る事しか出来ず、設定も理解するのに難しかったり、と途中、集中力を失いがちになります。

 

なので、原作者と脚本家は別にするべきと言う声は大きいようです。

 

原作ファンは映像化を忌み嫌います。それは、原作と映像作品は違うというのを承知しているからです。時折、原作通りに描かれる場合もありますが、それは稀です。

アニメ・ドラマも違いありません。

むやみやたらに映像化するのも嫌ですが、映像化してでも、見たい作品も多く有ります。

 

矛盾だらけのこのブログにお付き合いいただき、ありがとうございます!

 

宜しければ、コメントなどで論争を致しましょう(笑)

 

では、またブログを書きたいと思います。

 

ごきげんよう、さようなら。