早いもので、残り30日で2022年が終わりです。あっという間に感じましたが、皆様は如何でしょうか?
今年は実りある年であると、胸張って言えるかと聞かれたら、小説に関しては無に近いと言えましょう。
時折、挫折してしまいそうになる事がありますが、それでも世に出したい小説がごまんとあるので、諦めずに行きたい所存です。
地の文に躓くと決まって気持ちが萎えてしまい、YouTubeやNetflixに現実逃避してしまい、パソコンに触れない日も多々ありますことをここに宣言、並びに反省します。
つい先日、経験したることを小説に落とし込もうと画策しております。
内容としてはあまりここでは言えないものになるのですが、フィクションの中にある
ノンフィクションを楽しんでいただければ幸いです。
さて、先日投稿しました「探偵ガリレオ」の読書感想文の中に触れましたが、タイトルにある通り「有頂天家族」を読了しました。
読み終えるのに20数日掛かってしまいましたが、約5年ぶりに読んでみて、自分の”読”の速さには、手前味噌ながら、驚かされました。昔は余裕で一冊一か月掛かっていましたもので。
では早速、あらすじと参ります
「面白きことは良きことなり!」が口癖の矢三郎は、狸の名門・下鴨家の三男。
宿敵・夷川家が幅を利かせる京都の街を、一族の誇りをかけて、
兄弟たちと駆け廻る。が、家族はみんなへなちょこで、ライバル狸は底意地悪く、
矢三郎が慕う天狗は落ちぶれて人間の美女にうつつをぬかす。
世紀の大騒動を、ふわふわの愛で包む、傑作・毛玉ファンタジー!
(裏表紙に記載されたあらすじから引用)
桓武天皇が王城の地をさだめてより千二百年。
今日、京都の街には百五十万の人間たちが暮らすという。
だが待て、しばし。
人間などは我らの歴史に従属しているに過ぎないと。歴史も街も作ったのは
我々であると、大法螺を吹く狸もある。
だが待て、しばし。
王城の地を覆う天界は、古来、我らの縄張りであった。天界を住処とする我らを
畏れ敬え。てなことを傲然と言ってのけるものがいた。天狗である。
人間は街に暮らし、狸は地を這い、天狗は天空を飛行する。平安遷都この方続く、
人間と狸と天狗の三つ巴。
それがこの街の大きな車輪をぐるぐる廻している。廻る車輪を眺めているのがどんなことよりも面白い。
私はいわゆる狸であるが、ただ一介の狸であることを潔しとせず。天狗に遠く憧れて、人間を真似るのも大好きだ。
したがって我が日常は目まぐるしく、退屈しているひまがない。
上記の文は、原作とアニメにおけるプロローグです。
私個人、「有頂天家族」に得も言われぬ魅力を感じさせてくれたこれらの言葉の羅列。5年以上たった今でも大好きなセリフで、物語の壮絶さと神秘さを表しています。
「有頂天家族」とは、京都の街にはびこる狸と天狗と人間が様々な運命と縁で混ざり合って紡ぎ出される奇想天外な物語。
洛中洛外において、狸と天狗たちが生活を営むその姿は、まさにファンタジーでありながら現実味を感じさせます。
袖すり合う通りすがりの人は、もしかすれば狸であるかもしれない。
威厳を放つ背広姿が我が物顔で闊歩して来たら、それは鞍馬天狗かもしれない、
妖艶と凄みを放つ美しい女性が目の前に話しかけてきたら、人間を捨てた大天狗かもしれない。
話の根本は【家族愛】と、【敬愛】であると推察します。
天狗に憧れ”先生”と仰ぎ奉り、家族のために東奔西走関わらず馳せ参じ、主人公・矢三郎は父の遺した名言「阿呆の血のしからしむるところ」を信条に京都の街で、大学生に化けながら遊んで暮らしている。
矢三郎を含む、下鴨四兄弟は、洛中の狸たちから「立派な父の血を引きそこねた阿呆たち」という残念なレッテルを貼られており、長兄・矢一郎はそれ払拭すべく狸界の頭領【偽右衛門】になることに躍起になっている。
次兄・矢二郎は、とある事がきっかけで、六道珍皇寺の井戸で蛙の姿となって籠っている。
四男・矢四郎は未だ幼く、偽電気ブランと呼ばれる酒の製造工場で修業しているが兄弟の中で化ける力は弱く、ふとした瞬間にも尻尾を出してしまう。
狸界には偽右衛門と呼ばれる頭領を選ぶ習慣があり、その偽右衛門は誇りと尊大を持って狸界を束ねる。
矢三郎の父、総一郎は偽右衛門として洛中にその名を轟かせた立派な狸であった。
非凡なる化け力を持ち、京都にそびえる、壮大な如意ヶ嶽に化けることが出来、天狗からも一目置かれる存在である。
しかし、その偽右衛門改め総一郎は、大正時代から続く秘密結社・金曜倶楽部によって鍋の具となってしまった。
好き者食い集団の金曜倶楽部は七福神の名を冠する人間たちが月に一度の金曜日に集い、忘年会には狸鍋を食す。
狸界にとって秘密集団の存在は先刻承知であり、忘年会のある金曜日には必ずといっていいほど気が気でない。その上、偽右衛門を決める日とも重なり、ただ平然と森の中で息を潜めるわけにも行かない。
狸は天狗に教えを仰ぎ、洛中で生きる術を学ぶ。
その天狗こそが如意ヶ嶽薬師坊、通称:赤玉先生。
かつては如意ヶ嶽一体を治めていた大天狗であったが、今は見る影も無く、狭い四畳半に暮らす落ちぶれた飛べない天狗と成り果ててしまっている。
しかし、如意ヶ嶽を鞍馬天狗に奪われてしまった今となってもその権威は凄まじく、怒りに触れぬよう努力しなければならない。
その赤玉先生には愛する存在がいる。
元人間であり、如意ヶ嶽薬師坊の教えを受けて妖艶な天狗となった弁天である。その名の通り、「金曜倶楽部」のメンバーであり、下鴨家の仇にもあたるのだが、当の矢三郎は彼女に惚れている。その弁天も矢三郎には信頼を抱いていると個人的に思っています。
事あるごとに助け、または脅し、または協力する。
強さゆえに哀しみが灯るこの人物はどうしても憎めない存在です。
しかし、どうしても憎しみを隠し得ない人物がいる。
下鴨家とは対となる夷川家の存在である。
狸のみならず人間にも愛飲されている偽電気ブランを流通させており、絶大なプライドの高さっぷりが主人公とその家族にとって、目の上のたんこぶとなっている。
夷川家の当主である早雲は下鴨総一郎の実弟である。
しかし、その性格は極悪非道であり「偽右衛門」選挙で争う、実の甥・矢一郎をどう陥れようか画策している。
夷川家には三人の子がいる。
そして、海星である。
金閣銀閣の双子の兄弟は父同様、意地の悪い性格だが、末っ子の海星はどちらとも似ず、夷川家と仲違いしている下鴨家の人々を(矢三郎以外)助けている。
その他にも、淀川教授という、金曜倶楽部で布袋として所属している、物好き食いの大食いで、矢三郎と深く関わっていきます。
登場人物の人間の中で唯一ではないでしょうか? 矢三郎と関わるのは。
矢三郎自身、父を食べた淀川教授とは話が合い、嫌いにはなれずにこれからも変わらずに付き合っていきたいと願っている。
そもそもの話、淀川教授は矢三郎や総一郎以外の下鴨家にとっても深い縁がある人物でもあるのです。
この小説で学べるのは、様々な事情があろうとも受け止められる広い心を持つ事の大切さだと思います。
親愛なる父が鍋になって食べられたというのに、その食べた張本人に信頼を置いて、尚且つ慕うようになっている矢三郎の心の広さに、不思議に思いながら憧れてしまいます。
ある人には矢三郎はただ「諦めている」と取れたり、「阿呆だから」というかもしれない。しかし、頭は「愚か」ではないと思うので、精神面ではしっかりしていると思います。
私個人、人との関わりを持ち過ぎて、酷い目にあった経験があるので、大きな期待を持たないようになりました。
どうしてもマイナスな先の結果論を想像して物事に挑む。
もちろん、大きな期待を持つ場合もあります。期待したいですからね。ですが、なるべく期待しないようには心掛けています。
生きづらそうと思うかもしれませんが、元来一人が好きなので楽であります。
不思議な物語展開と、矢三郎の語り風でありながら後半では兄弟目線になるのには驚きでした。
一人称視点なのか
三人称視点なのか
はたまた、一人称神視点というありえない書き方なのか。
まだまだ奥深いです。小説は。
では、続いては「十角館の殺人」を読みたいと思います。
初です! そして、ようやくです。綾辻行人氏、『館シリーズ』の序章。
楽しみです。
日本は今、寒いのでしょうか? 皆さま、お身体にはお気を付けて、温かくしてお過ごしください。
こちらでは毎日暑いです。